2023.2.12 10:38
2023.2.12 10:38
「哲学とデザイン」グループ(Facebook)によせて、まず自分のイメージしている全体像を示そうと思う。
https://www.facebook.com/groups/484038026926003
とくに哲学は、語り出すとついつい細部に踏み込んでしまうものだが、ここでは、ド素人の蛮勇をふるって、とにかく拙くとも概要を一気に眺めてみたい。デザインについても語る人ごとに玉虫色をしたものだが、哲学との関係で自分のイメージを語っておく。
申すまでもなく、おそらく大きな勘違いも潜んでいると思う。まちがいがあれば、ご指摘のほどよろしく。
1. 「古代から近代まで」の哲学を一気に流す。
2. 「デザインとは」哲学とからめて語る。
3. 「現代の哲学トピック」デザインと関係のあると思われる話題をひろう。
哲学はおもしろい。
おもしろいに決まっている。なぜならその学問は、人の「思考」あるいは「知的探求」の歴史なんだから。「考えること」は人のもっとも人らしいものだ。今のところ「人のように」考えるものは人しかいない。
古代から中世を経て、近世、近代への流れを一気に見る。
(といっても西洋の話しにかぎるのだけど。)
古代:2700年くらい昔、神話などの世界観に対して、本当はどうなの? という疑問が示された。誰かの、すでにある「それらしい」話しを、鵜呑みにするのではなく、自分の頭で「よく考える」ことが始まった。世界の根源は水だとか火だとか原子だとか数字だとか。時間の不思議についても考えた。もちろんそれまでにだって、深く考えた人はいたはずだが、物事に対するそのような探求アプローチが、一つの「問題領域」としてその頃に初めて固まってきた。(タレスら)
そのはじまり自体も興味深いが、それ以前の人がいったいどんなふうに思考していたのかにも興味がそそられる。(おそらくそれは〈意識〉のはじまりにさかのぼる話しになり、かなりおもしろいのだが、それはまたいずれ。)
その後、そういった現実の世界の裏には目に見えない「普遍的な本質」の世界があるのでは、という発想が出てきた。つまり「本質」という考え方が生まれた。世界を知るにはその本質を知らなければならないということ。(プラトン)
存在論から認識論へと軸足が移ったともいえる。これも大きな構図。
中世:その後、宗教(一神教)が世界を長らく席巻した。
宗教の基本的な構えは「信じる」ことにある。しかし「信じろ!」という要求は、つまり「考えるな!」ということであり、これはいわば「反哲学」である。人は「考えること」をやめることも止めることもできない。今のところまだ。
だからとうぜん、これらは最終的には棲み分けることにならざるをえない。
近世:宗教の反動もあり、ルネサンスを経て、とにかく一度はすべてを「疑ってみる」ことから、現代につながる哲学が、再スタートした。(デカルト)
疑った末にたった一つ残った疑えないものとは「自分という存在」だったが、それは自分という、世界を見ている「主観」と、見られている「客観」という二元論の構図となり、それに沿って世界を見るアプローチが始まった。プラトンの「本質vs.現実」というのが垂直的な二元論だとすれば、「主観vz.客観」は、水平的な二元論といえる。
その中で、経験を重んずる派と合理的な思考を重んずる派という潮流ができた。これは現代でも普通に比較される二つの立場だ。
近代:近代のはじめに「経験vs.合理」の議論を(両否定ではなく)調停しようというものが現れた。それはさらに「主観と客観」「本質と現実」に繋がっていく。(カント)
カントは感性/知性/理性という三つの働きで読み解いた。これらは英語にするとよくわかる。感性:sensitivity/知性:understanding/理性:reason である。経験は感性がうけとめ、理解(知性)する。理性はその理由を考える働き。人は生まれながら観念の基本的な枠組みを持っていて、それと感覚からくる入力とで理解する。その枠組みとは、何かが同一であることとか、すべてのこと(結果)には原因となることがある、など。同一性とはたとえば、昨日見た机の上の花瓶と、今見ている花瓶が同じものである、という認識である。よく考えるとこれらが本当に同じものであることを完全に立証することはむずかしい。
余談だが、カントは「直観なき知性は空虚、知性なき直観は盲目」と言ったそうだが、孔子(2500年前の中国の哲人)の言葉「学びて思わざるはくらし、思いて学ばざればあやうし」と見事に共振しているのは、おもしろい。
わたし達は世界がまず存在していてそれを我々が認識している、と素直に考えているしそれ以外にあるのか、と思う。が、カントの考え方を突き詰めると、我々が認識するからこそ世界はあるのだということになる、という。これを「コペルニクス的転回」と呼んだ。
古代から近代:以上が、古代から近代までの2500年間くらいの話しで、長いようで短い。
自分のレベルのせいかもしれないが、ここまでは少々は小難しいが、それほど難解な話しでないような気がしている。
現代の哲学には、いろいろな主張があり、あまり一直線に話しにならばない。そこに行く前に、デザインの話しを少ししておくことにする。