2023.2.12 10:46
2023.2.12 10:46
哲学的な視点から、デザインという行為を眺めてみたい。
「デザイン」について、何か絶対的な定義というものがあると考えないほうがよいと思う。いろいろな定義がありうるし、どれも間違いとはいえない。そうではなく、どう定義することが実り多い豊かな成果を生むか、どんなよい効果があるか、と考えたい(これは自分が〈効果思考〉と呼ぶもので、プラグマティズムの格率だ)。平たく言えば「おもしろいか」でもいい。ただし「本当におもしろいか?」と深める必要はあるけれど。
自分はデザインを、道具づくり、あるいはたんにものづくりという行為の一部と考えたいと思う。作られる「道具(もの)」は「人工物」と言い換えることができる。人工物つまり人によって作られたものはすべて、例外なくなんらかの「目的」を持っている。目的を果たす働きのことを「機能」と呼ぶ。機能をもっているのだから「道具」といって問題なかろう。
ものづくりをよくみれば、粘土を捏ねるように実際に手を動かして「作る/制作」する部分と、どういうものを作ろうかと「計画/構想」する部分とにわけられる。いうまでもなく、デザインは構想にあたる部分に属し、構想は制作に先立つ。
どういうものを作ろうかという「構想」のなかには、動作の仕組みや実現のための素材や素材の加工、部品の組み合わせ方を決めること=「設計」という部分がある。さらにその「設計」に先立つ部分として「デザイン」がある、と自分は考える。
道具は「作られる」と「使われる」という二つの局面を持っている。使われるという局面では、「機能」のほかに作る人とは別の「使う人」=使用者が強くかかわっている。
人はある目的を抱き、そのために道具を作りそれを使用する/機能させる。しかし人がかかわると、道具は単純に本来の機能だけでは語れなくなってくる。
たとえば、その道具を「所有している」という事実は、機能とは別の「いいこと」つまり「価値」になりうるし、道具をうまく「使いこなせる」ことにも特別な意味がある。道具の利用が生じさせる「全能感」も重要な存在意味だ。そもそも道具は自分(の能力)の拡張とも考えられるわけだが、よく働く道具は自分自身をより大きなものと感じさせてくれる。またそれらとも相まって、道具は審美的な意味も帯びてくる。
そのような本来の機能(目的)から派生した意味(価値)を、人は感じ、考えてしまうものであり、そういった部分こそ、この構想段階で、設計に先立って考えなければならない。それをデザインと自分は呼びたいと思う。
「デザインする」ことの内容は、以下のようにさらに2つに分かれる。
一つは、その道具を、使う人がどのようなものと認識するか、つまり、人の道具認識の「内容/メッセージ」を決めることであり、それは道具のコンセプトと言われるものに少し近い。
それともう一つ、そのメッセージはどう「表現」すれば伝わるのかということ(表現は「現象」の一つの側面)。
デザインははじめ、たんに表現を考えることであったのかもしれない。メッセージは与えられたものだった。しかし表現は所与のメッセージをはみ出ていく。やがて表現はメッセージ以上のものになる。
そういう経緯で、表現を考えるデザイナーが次第に、メッセージも含めて考えることになっていったのだろうと自分は想像する。すべての「優れたデザイン」は、メッセージと表現が両立したものなのではないだろうか。それらは分業では生まれにくい。
ということで自分の意見としては、デザインを最終的には「表現」に降りていくものとして、考えたいと思っているし、それはメッセージの創出を含まざるを得ない。
これがデザインという行為の意味であろうと自分は考えている。
哲学との関係でいえば、デザインは大きくは「認識論」にかかわる。人がその道具をどう認識するのか、それを知るためにまず、人の認識とはどういうものであったのかを、自分は哲学に尋ねたいと思う。
ここで述べているデザインの具体的な例は、ファッションデザイン、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、建築デザインなどである。工芸やアート、また設計といった分野はデザインに近接しているが直接に言及していない。
わたし自身は、主にコンピュータに関連する領域(現代的にはUI・UX)での、プロダクトデザイナーであり、教職についているが「研究」を専門にする者ではない。