2020.6.13 8:37
2020.6.13 8:37
少し前に、ローソンのプライベートブランド品のパッケージが新しくなった。著名デザイナーに依頼して、社長肝いりのプロジェクトだったそうだ。自分もローソンで何回か目にして、実際に購入したものもある。
今回、パッケージの情報表示がわかりにくい、ということで、パッケージのデザインを変更する方針だそうだ。
ローソンのパッケージについての記事。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5edf9828c5b6f05dc48aedca?fbclid=IwAR16c9xNrHNkq4okjPu1A5fFykd0Buqz41XbYvPYhKZKVoCXbOwucFWeSIo
店頭に並び始めてわりとすぐに、ネットで新パッケージを批判する投稿を目にした。
納豆の主たる表記が「NATTO」とローマ字なので店頭で探しにくいとか、日本語がローマ字なのに中国語やハングルの表記の方が大きくて気に入らないといった民族感情のにじむ意見も見た。記事によると、はんなりした配色が視覚障害者には見づらいのでは、という意見もあったようだ。
確かにこのパッケージのデザインは満点ではないと思う。探しにくいとか見づらい人もいることも、事前に気づけたはずで、もう少し配慮ができたかもしれない。(民族感情云々に関してはただの言いがかりだと思うが。)
このパッケージに関する私の個人的な評価は、すごく高くはないけど、嘆くほど低くいものではない。中の上、10点満点で6点くらいだ。が、それはどうでもいい。
個人的な評価とは別に、自分自身もデザイナーだし(パッケージではないが)、大学で教えてもいるので、専門家の立場での評価もある。専門家としての、このデザインに関する評価は、個人的な評価よりは高い。7〜8点くらい。
「NATTO」の表記は、なるほど思い切ったね、という感じだし、はんなりした配色の狙いの世界観も、それとして理解はできる。
デザインに100点はあり得ない。
(「すべてのデザインは失敗する」(https://d-pb.tumblr.com/post/166628000205/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AF%E5%A4%B1%E6%95%97%E3%81%99%E3%82%8B)https://d-pb.tumblr.com/post/166628000205/すべてのデザインは失敗する )
自分は、少し(いや、かなり)危惧を感じている。
このローソン案件に関連してというより、ネット社会でのデザインの在り方に関して。
ポリティカル・コレクトネス的な匂いがしないでもない。
自分はデザイナーとして、ずっと「わかりやすさ」を追求してきた。それについては結構自信がある。けれど、わかりやすさの擁護から、表現のニュアンスなどが悪いことのように否定されてしまうことをとても心配している。
ネット社会の中では、極端な正義の断罪が加速度的に起きる。その中でデザインという綱渡りを続けることに、本来のデザインのむずかしさ以上のむずかしさが積み重なりそうで、気が重い。
はんなりしたシックな色彩で、ある世界観を表現することと、見やすさやわかりやすさに心を配ることとは、問題のレイヤーがちがう。
このレイヤーの異なる問題を、「表現」という同一平面で扱うことが、まさにデザイナーに求められていることなのだと思う。
(※念のためにいうと「世界観を表現する」というのはデザイン目的の一つの例である。)
また間違えてはならないのだけど、これらの「バランスをとる」ことがデザインなのではない、とも言いたい。少なくとも「バランスをとる」と簡単にかたづけていいことではない。
具体的にいうと、世界観の表現とわかりやすさを50対50に配分することがデザインではない。仮に数字で分量を量れるのだとして、それらを等分にするのではなく、そのときどきのデザイン課題について、63対37や9対91など、どういう比率で配分するかを決めること、がデザインなのである。そして表現はその結果である。
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もう一つ、わかりやすさについての危惧がある。
最近、わかりやすい、に重大な弊害があるということに気づいた。
たしかにわかりやすいのは大切なことだけれど、それは内容の重要さとは、必ずしも一致しないということ。
わかりやすく言うと、重要度が60でわかりやすさが20の事象Aと、重要度が10でわかりやすさが70である事象Bのどちらが、より価値のある事象か? ということ。
答えはAに決まっている。
極端な場合、Bの価値はマイナス(つまり弊害)なのに、よく見えることにおいて、わかりやすさが高得点であるようなこともある。
自分の念頭には、身近な国の一部の為政者たち話しがある。彼らはときに強い批判にさらされながらも、彼らの話自体はとてもわかりやすい。「全身全霊で取り組む」「指導力を発揮する」「スピード感をもって」「○○2.0」「○○宣言」など。それらの言葉の意味は、誰にでも一瞬にして理解できる。表面的には。内容よりも、聞き手にとりあえず疑問を抱かせない言葉を選ぶことに、細心の注意が払われているように見える。
それに対する対抗勢力側の発言は、どれもむずかしげだったりする。よくよく聞いたり、少しは勉強しないと、その意味がわからない。
でもあたりまえのことだが、意味のあることだが多少わかりにくいこと、は世の中にはいくらでもある。
自分のデザイナーとしてわかりやすさを実現する能力が、価値の少ないものを勝たせるように働いたら、いやだなぁと思う。
心配のしすぎかもしれない。けれども、これまでのように天真爛漫に「わかりやすいことは大切だ」と言えない気持ちがしている。
でもこれからも、「わかりやすさ」についてさらに考え続けたいとあらためて思う。
その思考自体が、わかりにくいものもなりがちであることを恐れずに。
200613