2021.1.6 22:28
2021.1.6 22:28
デザインという世界に身を置きながら、デザインとはどういう仕事なのか、ずっと考えてきた。
自分の職業について、いったい何をそんなに考えることがあるというのか。
魚屋さんは魚を仕入れて丁寧に捌いて買ってもらうし、営業職の人は自分の商材をうまく説明したり付加価値を加えて買ってもらう。魚屋さんだって魚を選別する眼やおいしく美しく魚を捌く技術、営業職の人はどう顧客をうまく説得できるのかを考える。
デザインは、どうすればよい商品や製品、あるいはよい広告が作れるのかを考える。しかし「よい商品」や「よい広告」の「よい」とはどういうものか、これはなかなか一筋縄ではいかない。
たとえば、エンジニアリングが受け持つ機能や性能は、数値などによって良い悪いが量りやすい。しかし製品の「デザイン」は機能や性能とイコールではない。
デザインに求められているのは、機能や性能以外の「何か」、あるいは漠然とした「魅力」といったものである。おそらくこの「魅力」は、それを受け取る側にとっても、デザインする側にとっても10人に聞けば10のちがう答えが返ってくるような評価指標なのである。
だからデザイナーである自分も何が「よいデザイン/魅力」なのか考えてきたわけだが、当然一つの答えにたどり着けるようなうまい話であるわけがない。
もっとメタ的に把握するしかない。ある意味で哲学的な問答に近づく。
自分がそれを考えるにあたって大切にしてきたことがある。それは「観念的」に事象を考えないということ。あるいは、先入観や予断に囚われないことと言ってもいい。
観念的に考えるとは、たとえば、女性はやさしい形や色を好むとか、子供はかわいらしい絵柄の付いたものが好きだとか。男性はメカニカルな機械っぽいものに魅せられるなどといったことである。
美しいことは「よいこと」の一部になりうるものであるが、美しい色の取り合わせなどに関しては配色理論もあるし、配色辞典といううまく調和する配色のサンプルを列挙したような本もある。また黄金比などの美しいとされる矩形の比に関する理論もある。
さらに美そのものに関する議論や評論も古来から無数になされている。
そういった「理論」や「観念」「定式」は、大まかには正しいし平均的に見れば合致しているとも言える。
しかしデザインに職能として求められているものは、それではない。そういう誰でも理解可能な観念や定式のままにものを作ればいいのであれば、別にデザインという職能はいらないのではないかと思う。
定式化されていない/できない「よい」が求めるということは、常に「新しいよさ」が求められている、ということでもある。おそらくそれが「創造性」という名で求められているものなのだろうと思う。
もう一つ付け加えると、具体的な「よい」の内容は固定していない。時代によっても、国や文化によっても一人の人の中でも変化していくということである。もちろん「よい」の影響は響きあって広がっていく。
それを固定的に捉まえようとすることは、無益なことだ思う。
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とはいえ、デザイン志望の学生を見ていて、その「観念」すら希薄であることに驚くこともある。まさか大の大人に向けて、その色や形はありえないだろうという絵を描いてくる。その若者にとっては、囚われるべき「大人」という観念がそもそもなかったりして、これはこれで困ったりもする。
210106