2021.1.7 23:21
2021.1.7 23:21
「よりよく生きる」
ソクラテスは、自らが「よりよく生きる」ための活動をしていた。
よりよく生きるとはどういうことなのかを考えることは、哲学と呼ばれるようになった。
それは自分が高校生のときに学んだことだ。
昨日は「神秘性の排除」ということを考えていた。内容はずっと考えていたことなのだけれど、そのフレーズ自体は昨日ふと湧いたものだ。言葉にしてみると、あらためて適切な「表現」だったと感じる。ここに至るまで何年かかったことか。
なぜ神秘性を排そうとしているのか。
自分や人やデザインとは、いったい何なのかと考え、考え続けようとしているわけだが、そこに「神秘性」を持ち込めば、すべて簡単に解決してしまう。しかしそれでは自分は納得できない。
世界についても、自分についても、わたしたちにはわからないことだらけだ。科学は毎日、一枚一枚うす皮をはぐように謎を解明しているにもかかわらず、わからないことはなくなりそうにない。
でもそこに、神秘というナイフを入れれば、わからないことが決着する。そのかわりに、思考は沈黙せざるを得ない。
世の中に「神秘的」なことはたくさんある、それは認めよう。
でも「神秘」はない、そこからはじめたい。
神秘とは何か、それは〈もの世界〉と〈こころ世界〉という二つの世界には破れがあり、何かしらのチャネルが通じている、ということと同じ、というのが自分の気づきであり見立てだ。
「神秘」というものが、本当に無いのか、それともやはり有るのか、じつはそれはわたしにはわからない。むしろ、有ると、思いたいのかもしれないとも思う。
でもそれだからこそ、「神秘はない」を仮定してできるかぎり考え続けたいと思うのである。神秘はない、を透徹させた先に矛盾がもし待っているなら、逆に神秘はあることが証明される。そういう背理法の思考実験の途中と考えたい。
神秘はある、に早計に与してはならないと思うのである。
そういうことに、なぜ自分はこだわっているのか、と振り返ったとき、よりよく生きるためなんだろうと、そこに還った。
「よりよく」の内容は、じつにたくさんのことを含んでいる。百人百様だし、土地や民族とともに変わる、時代とともに移ろう。自分が「〈価値感〉」と呼んできたものもまったく同じだ。
自分からみて、「彼ら」はずいぶんくだらないことに一喜一憂していると思えても、彼らも「よりよく」を求めているのだろう。それを絶対的な尺度で量ることはできない。
死ぬ瞬間に「ああおもしろかった」と思えたら最高だ、というのは筑紫哲也の言葉だが、それも一つの「よりよく」の有り様だろう。
よりよくのカタチを見いだすことは、デザインのミッションであると思う。
たしかにその量は量れないのだが、質はある。
「質」をどうとらえるのか、に一つの鍵はあるのかもしれない。
重要なことは、神秘性に関する感性を研ぎ澄ますこと。
そのうえで、神秘をぎりぎりまで受け入れないこと。
それが、自分にとって「よりよく生きる」ことの暫定的な指針であり戦略である。
自分は、そういうふうにこだわっている。
200309