2020.5.5 18:19
2020.5.5 18:19
なんという名前で呼べばいいのかわからないが、人に関する大きな歴史を科学的な視点から見ることに、ここ5年ほどはまっている。これはたぶん一過性の興味ではないと思う。この興味が尽きるときは、本当の老いとの道行きがはじまるとき、なのだろう。待ち遠しい、とはいわないにしても、それはそれで受け入れたいと思う。自然さは自分の信条だから。
でもこれは、どうやら個人的な興味云々ではなく、世界的な知的な一つの傾向らしい。「ビッグ・ヒストリー」ないし「オリジン・ストーリー」とも呼ばれる。
その焦点は「人とは何か」に合わされている。徹底して、と言ってもいい。単なる宇宙論、物質論、時間論、考古学、地質学、気候学、生物学、文明論、歴史学単体ではなく、それらの総合として「人」を理解しようとしている。
人間理解という意味では、心理学や哲学に対抗する視点かもしれない。心理学や哲学が、人のある部分に焦点を合わせて専門的に見ていくのに対して、外側から(空間的にも時間的にも)、「世界」という視点から、総合的に見ようとしている。
そういう視点から人のすべての営為を見ようとしいる。たとえば哲学に関しても、その内容を問うのではなく、人はなぜ哲学という問いを問うのか、なぜそのように問う存在になったのか、そのように問うた結果どのような者になったのか、を考えるようなアプローチだ。
そしてそのアプローチの精神において100%「科学的」である。観測された事実を元に仮説を立てて検証する、という姿勢である。そこでは「空想」は注意深く選り分けられる。
たとえば、「空想」についていえば、単に空想で出した結論は完全に却下される一方、空想こそがさまざまな仮説を生み出す元であり、それが多くのものを生むことは、積極的容認される。人とは、そういう「空想」=イマジネーションによって、人になってきたところの者である、ということは観測される事実であるから。
空想で結論を出す、たとえば宗教のような行為についても、科学的でないと否定するのではなく、なぜ宗教を人は抱くのか、を問うような立場である。それは芸術についても同じだ。
宗教も芸術も、いわば空想やフィクションの産物である。でも、空想やフィクションは人の持っている大事な要素だし、およそおろそかに扱っていいものではない。
自分が読んだ、読んでいる、そういうことを扱っている書物は、以下のようなものである。
自分は、そういう中で自分が体験してきた「デザイン」というものを語りたいと思う。
それは一言で言えば、「現象」に抱く感情、という視点といえばいいか。端的にいえば、それは「表現」の問題である。人とは「顕れ」に対する反応体である、そんな視点かと思う。
誰もそれを語っていないから、自分はそれを語りたいと考えている。
など。