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ウィトゲンシュタインとクワイン

2023.3.14 19:01

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ウィトゲンシュタインは、哲学のなかでも難解ななかに入るだろうか。
彼は何をいおうとしているのか。「簡単に」のべてみる。

個人的な感覚としては、彼はさまざまな事象をしっかりわかりたかった人なんだなと思う。そしてわかったことをはっきりと語りたいと強く思っていた人という印象が強く、だからこそ思想が変遷した。
哲学者なら誰でもそうである、ともいえるが、とくにそう思う。

・ウィトゲンシュタイン前期

ウィトゲンシュタインは前期と後期とで大きく思想が変わる。
前期は、論理的に考えればすべては明快になるはず、というもの。「確かなこと」からはじめて、できるだけ論理を飛躍させずに、大きな全体像を構築しようとしたのが「論理哲学論考」。それだけ、それ以前の議論が「論理的」にはいい加減と強く感じていたのだろう。これを指導したのがラッセルだが、どちらも数学、論理学に通じている。

「論理哲学論考」はユークリッド幾何学(「原論」)を彷彿とさせる(読んでいませんが)。その最後の言葉が「語りえぬものについては沈黙を」だ。
しかしやがて彼は自分の考えに行き詰まった。本当に論理的にすべてを語りきることなんかできるのか? そんな疑念にぶち当たってしばし沈黙した。

・後期/言語ゲーム/家族的類似

復活した後期の代表的な考えが「言語ゲーム」。これはおもしろい考え方だと思うし、わたしたちの多くの議論――日常の会話も含めて――でのすれ違いを説明している。

いろいろな時と場の中で成立している「対話」は、一つ一つが言葉のゲームであって、それぞれは別のルールのうえで行われている別のゲームである。
実際にそれぞれのゲームで使われている言葉は、日本語や英語などの同じ単語であるが、ルールがちがえばその言葉が指すものは正確には同じものではなく、そのゲームルール固有のものである。
たとえば「リベラル」という言葉は、あちらの陣営やこちらの陣営、教科書での意味とSNSでの意味は、正確に同じものではない。もちろん、まったくちがうということではなく、親と子、兄弟同士が似ている程度には似ている(「家族的類似」)のだが、でもやはり「ちがう」のであって、それを同じものとしてしまうと議論はすれ違う。

ウィトゲンシュタインさん、前期はまだ青かったけど、後期は大人になったということだ。

・信念のネットワーク/ホーリズム

ウィトゲンシュタインと少し離れるが、クワイン(ネオ・プラグマティズム)は、ホーリズムという思考のなかで「信念のネットワーク」ということを述べている。「リベラル」の意味は、「リベラル」という一語で決まるのではなく、その時と場で語られている、リベラル以外のいろいろな言葉(信念)との関係性(ネットワーク)のなかで、全体として(ホーリズム)決まる、という趣旨かと思う。

これと「言語ゲーム」は響きあっている。つまり一つの言葉の意味は、それが語られているゲームを知らなければ特定できない(完全な「特定」などありはしないのだが)ということであり、一つの言葉はゲームの中で他の言葉(信念)とネットワークをなして、ネットワークがその意味を支えている、ということ。

自分は今、「デザインと哲学」というゲームをしている。

・言葉の定義はむずかしい

こういった事情が「言葉の定義」をむずかしくしている。
いや、事情が定義をむずかしくしているのではなく、「言葉の定義」とは元々、かくのごとく思ったより単純ではない構造をしている、ということなのだ。

さてここからデザインは何を学べるだろうか。

230314