2025.7.5 15:17
2025.7.5 15:17
「エスノメソドロジー」という学問分野をご存じだろうか。自分はそれがどういうものか、ごく最近その概要を知ることとなった。
「エスノグラフィ」という言葉とともに耳には入っていたようには思う。エスノグラフィが「民族学/民族誌学」であることは意味としては知っていたので、「メソドロジー」なのでおそらく、民族学の方法論なんだろうくらいの観念だった。
しかし内容はぜんぜん違ったというか、むしろ逆ですらある。
そしてこれはとても重要な問題領域/立脚点だと思った。とくに個人的には、これまでデザインについて長らく考えてきて、至った到達点に高い関連性があると思われた。
(ややこしいので、以降エスノグラフィは「民族学」と書く。エスノメソドロジーには訳語はないようだ。)
「エスノメソドロジー」という分野は、ハロルド・ガーフィンケルという社会科学者が1950年代半ばに創設したが、次のエピソードがその内容を要約していると思う。
ガーフィンケルの初期の研究の中に裁判の「陪審員」を観察するというスタディがあった。そこで彼は次のような発見する。
ある成員(陪審員)にとって、その成員自身の属する社会の常識的知識が『あらゆること』についての常識的知識として利用可能である、と考えているようだ。つまり、「自分が「あたりまえ」と考える判断は、どこへいっても通用するはず」という確固たる信憑が、人にはあるということ。
この信憑は、まさに「あたりまえ」なので、普段は意識に上らず、自分でそれに気づき、疑うことはむずかしい。またこの信憑は、長年繰り返されてきたものであり、パターン化されている。
そこでガーフィンケルは、人びと(エスノ)の「方法」(メソドロジー)を研究対象することにした。ここでの「方法」とは、推論の方法、解釈の方法、コミュニケーションの方法、相互行為の方法、会話をするための方法、などあらゆることに関係している。
自分はデザイナーなので、デザインのことについては、自分でもうんざりするほどの時間をかけて考えてきた。簡単にいえば、どうすれば「よいデザイン」を生み出すことができるのか? ということにつきるのだが、そもそも「よいデザイン」とは何であるのか? でつまづく。
「よいデザイン」の条件を ”まじめに” 列挙することは可能だし意味あることでもある。たとえば使いやすさとか、美感や質感や造形性、地球/自然に優しいエコロジー、経済性、教育的、所有する満足、ステータス、かわいい/かっこいい、やる気をあげる、誇らしい気持ちになれる、などなどなど。どれもその通りなのだけれど、それらを総合したうえで、デザインを選ぶ最後の一押しは個人的な経験や思い込みで、結局のところなんとなく、自然に、〈感覚〉的に決めている。
いわば自分にとって「当たり前」の感覚で決めているといってもいい。
自分の中で、その感じと結びついていて、同根の問題に思えるのである。
エスノメソドロジーは「会話分析」を主たる方法としているようだ。
会話分析の事例を見ていくと、とても納得がいくし十分におもしろくて悪くはないのだが、自分としてはなんとなく物足りなくもある。
これは「学問」という枠組みのなかではどうしようもないことなのかもしれない。学問としては、そこにある会話という「事実」をしっかり受け止めて、それを「分析/解析」する必要があるのだろう。
20世紀に自分が見ていた未来としての21世紀と、現実の21世紀ののイメージはずいぶん乖離している。予想は大きくはずれた。戦争は終わらないばかりか、超大国が直接関与するような新たな戦争も近づいているようだ。情報ネットワークは、人々に新たな知や幸福をもたらすというより、陰謀論、ポストトゥルース、ディープフェイクなどで、新たな相互不信、疑心暗鬼、炎上、口汚い口論と論破、嘘や騙しや言いくるめが跋扈している。選挙の在り方もわけがわかない。
自分も含めてだが、それらの根本のところに、それぞれが自分の「当たり前」を信用しすぎていることがあるような気がする。
一家言あって世の中を動かしているように見える人は、どの人もどの人も、あまりに自信満々に見える。自信満々であることが、この時代ではとにかく「正義」、ということなんだろう。
でもまったく「弱さ」が見えないような人は、自分には信じられない。
自分自身の判断の一番の根っ子を疑う、というのは確かに難しいことだとは思うが、自分自身という「存在」を信じながら、自分の「判断」を冷静に疑うことができればいいのだけれど。
エスノメソドロジーという視点が、それを気づかせてくれる方向に働くことを夢想している。
ためにし、AIに尋ねてみると、エスノメソドロジーは近年、こういった方面での研究も注目されている、そうだ。
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