2025.9.17 9:05
2025.9.17 9:05
思いだしたことがある。
中学校の美術の授業、その年だけ正規の先生ではなく臨時の女性の先生だった。名前は忘れたが顔だちはよく覚えている。歳は30代くらいクールな皮肉屋で人をあまり褒めないタイプの先生のように見えた。
あるときの授業なぜか座学で、先生は生徒たちを睥睨し「絵を描くうえで大切なことをあなたたちはどう考えていますか?」という質問を投げかけた。あまりに抽象的な設問で当然手を上げるような生徒はいない。
そのとき自分は、具体的な答えこそ浮かばなかったが、なんとなく答えてみたい気持ちがして先生の目を見たかもしれない。挙手はしなかったが「では君!」と指名された。
立ち上がって「見えないものを描くこと」と答えた。
女先生は「うーん、いいこと言うわねぇ」と唸った。
そういう記憶だ。思いがけなく褒められたことは百まで忘れない。
とはいえ、やはり忘れていた。
その後デザイナーになって、デザインとは何かと考えに考え続けた。そのエピソードから50年後デザイナー最後半になって、絵にしろ詩にしろ、映画や文学にしろ、芸術とは見えないものを描くことなんだと覚った。もちろんデザインも同じ。あるいは自分が気づいたところの「〈表現〉の本質」といってもいいかもしれない。
見えるものを見えたままに描くのは、見えないものを見えたように描くことの練習にすぎない。多くの人はそこを見誤りがちだ。
美しい山や花や人物を描くとき、描こうとするものは山や花や人物ではなく、心の中にある、ある名状しがたい「想い」だ。その想いを山や花や人物の風情を借りて見えるようにすること、それが〈表現〉ということなんだ。
言葉を覚えたての幼子が、ヘレン・ケラーのようにつぎつぎと指さしてそのものの名前を呼ぶのは、心の中に蠢いていた名状できなかった物事たちの〈観念〉という想いを、言葉で〈表現〉する歓びに打ち震えるからだ。
言語は記号であるという。記号は指し示すものと指し示されるものからなるという。言葉とその意味との関係。それをシニフィアンとシニフィエと呼ぶ。
代数やプログラムでは、変数Xは隠れて見えない数値であったりオブジェクトを指し示している。そういう「言葉」を使って内容を説き明かし操作していく。
見えていなかった〈内容〉や想いは、いったん指し示されたなら、その言葉や変数Xを使えばよい。「表現」を英語では “representation” というが、これは「再び現れること/代理」という意味である。言語とはそういう「便利」な道具だし、有効であるゆえに数学でもプログラミングでもその仕掛けが使われる。
しかし、1回かぎりの、個人的な、使い回しの利かない、微細で繊細な想いは、そのたびそのたびに「描いて」やらなければならない。
そういったもろもろの〈表現〉にまつわる事情を、中学生の自分は偶然にも、断じて偶然にだが、言い当ててしまった。
これは神秘的な話ではない。ただのおもしろい偶然のできごとだ。
そのことを今、思いだした。
250916