2025.11.23 0:00
2025.11.23 0:00
人の職業がAIに奪われるという話しはよく聞く。けれどそれ以上のこととして、人の「労働」という行為が機械に置き換わることで何がおきるのかという視点で、自分はこの事象を見たいと思う。ということだが、そもそも「労働」とはどんなことだったんだろうか。
一昨年手に入れたまま積ん読になっていた「労働の思想史」(哲学者は働くことをどう考えてきたか)中山元 を、ようやく読み終えた。
本書は、有史以前から現代まで、人びとにとっての「労働」を俯瞰した比較的平易な平易な通史である。おもしろかったし読んで良かった。
AIの問題は「労働の問題」であるという予感は、かなりいい線いっていたと、あらためて思う。
ヘシオドスは、働くことを次のように分類する。
プロメテウスはゼウスの命令に反して、人間に火と技術をもたらしたが、ゼウスは怒ってパンドーラに災いの詰まった箱を地上に運ばせた。これによって人に「苦しい労働」と死がもたらされた。キリスト教/ユダヤ教でも、人間は神から禁じられた知恵の実を食べて、労働をしなければならなくなった。つまり、労働とは「罰」であって、ゆえに苦役であった。
ギリシアでは、実際に自由人たるものにとっては、労働も仕事も卑賤なものだった。
中世に入って修道院では、労働はイエスの生涯と精神を真似ることであり尊いこととされた。プロテスタントたちは、労働し豊かになることは神の意志に適うと労働を合理化した。
17世紀には、労働をさぼる失職者は道徳的に劣るものとして、罪人や脱走兵、病人、とともに閉じ込められた(大いなる閉じ込め/フーコー「狂気の歴史」)。
18世紀、アダム・スミスらによって経済学が誕生し、労働こそが価値の源泉であり、価値の尺度であるとされる。
マルクスは、労働者の生み出した価値が資本家に搾取されていることを指摘し共産主義を謳った。
つまり労働は、苦役から尊いものになり、さらに価値の源泉にさえなったわけだが、AI(コンピュータ〜ロボット、機械)が、人を苦役から解放してくれて、「自動的」に価値を生み出してくれるなら、大局的にいって人の自由度や資産が増す「よいこと」ともとれる。
何が問題なのか。
働くことの意味には三つの意味があるという。
どれもまさにその通りと思う。が、反面、少々疑念もある。
1.はよいとしても、それ以外は後付けの「派生的効果」、つまり労働に先立つというより結果として得られるものであるように思える。1.として、どうしても労働はしなくはすまないものであることを慰め、紛らわすためにひねり出した「いいこと」という気もしないでもない。
とにかく、重要なことは1.であるのだけれど、現在AIやロボットその他の技術によって、生きるために絶対必要であった1.が、霧消する/あるいは大きく縮減する、という線が見えてきたと自分は感じている。
(まだ世界には戦争も飢餓もあるわけだから、もう少し先のことかもしれないが、遙かに見えないほど遠くもない。)
外形的に、人は「生物」として課せられてきた、生きつづけるための struggle(奮闘、努力、ガンバリ…)という頸木/足かせが外されるということになりそうだが、はたしてこの[制約なし][ほぼ自由]の元で、人は今のままで生きていけるのだろうか?
もちろん自分は人はかならず生きていける、と思っている。
今は、それがどういうやり方かはわからないけれど、人自身は何か新しい生き方/生物に変容していくのだろうな、と思う。
そもそも自分ごときが心配してもしかたないし、心配もしていない。
が、それにしてもどんなふうに、どのような手立ての、生き方に人はなってしまうのだろうか?
いや、気になるなぁ。すごく気になる。
本書に登場する哲学者他の一部:
ヘシオドス、ソクラテス、アリストテレス、マックス・ウェーバー、ルソー、バタイユ、ハンナ・アレント、ルター、カルヴァン、アダム・スミス、ホッブス、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲル、エンゲルス、マルクス、シモーヌ・ヴェーユ、ニーチェ、フロイト、フーコー、ハイデガー、イヴァン・イリイチなど
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