2025.7.12 12:01
2025.7.12 12:01
批判的に読み始めたのだけどその批判は的はずれだった。個人的に今後も大切な本になると思う。
「論理学」が教える[論理]は厳密なものであるけど、それ自体は閉じており外に向かって何も生み出さない。これを「形式論理」という。
本書で扱う[論理]の問題は、「人が「論理的である」と感じること」とはどういうことかについてであり、それを「本質論理」と呼んでいる。それには文化的な側面もある。
たとえば人の話を聴いていて、「論理的」と感じるのは「必要なことが(聞き手にとって)理解可能な「順」で並んでいる」ことによって成り立つ(カプラン)という。
ぎゃくにそれが満たされないと人は「非論理的」と感じる。さらにいえば、それに怒り、憎しみを感じ、反発・非難し、排斥しようとさえする。そして、それは日々起きている。
そしてこの「順」=「話の順序」が本質的に重要である、というのが本書および筆者の言いたいことの肝である。
端的な例として、国・民族にわたる文章を作る方法(作文法)を比較する。
これらはどれが正しいとことではなく、それぞれがそれぞれの「価値観」を体現しているので、これらを自覚的、選択的に「使える」とよい。とくに筆者は、日本の共感にもとづく「社会的なアプローチ」が、世界的・地球的なさまざまな「今の問題」の解決の糸口になる可能性を指摘している。
ここまでの「論理的な感じ」を概観すると、それはその人にとってポジティブな評価であり、本当だ/聴く価値ある/納得がいく/当たり前=正しい、という「感じ」を指しているように思える。そう考えると「エスノメソドロジー(EM)」ともつながっている。
自分がはじめて論文を書いたときのことを思い出す。
とうぜんエッセイ/小論文の型を求められるわけだが、本書でも書かれているが、最初に主張を述べきってしまうことに強い違和感を覚えた。そして自分の事例(エピソード)のニュアンスが共感されることを読み手に求めたい気持ちがたしかにあった。それが見事に説明されていた。
これは、自分が日本の作文法を学んできたということもあるけど、それ以上に日本人としてそういう発想が染みついているのだろうと思う。(この文章だってたぶんそうだ。)
自分としては、こういう日本の作文文化はあらためて好きだし、けっして卑下せず肯定したいとも思う。
大げさかもしれいけど、今のアニメやマンガかつては浮世絵など、世界で受け入れられている日本的なものの底に「共感をベースにする」という要素があるのではないかな。
日本の社会運動としての「綴方」教育の再評価。
「日本のプラグマティズム」「概念砕き」「起承転結」「縁起説/相互依存性」
レトリック/蓋然性:「私たち人間は何もないところから自由に考えているわけではなく、使い慣れた型を用いて議論したり人を説得する。共有された型を用いるからこそ、他人を説得できる。」
250712