2026.1.15 0:50
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知り合いの書道の先生のところで、たまたま書家石川九楊の図録を手に取った。眺めていて衝撃を受けた。漢字一つ一つがたのしい絵だった。お年玉として自分に購入した。
調べたら石川九楊は、NHKの「べらぼう」の題字を書いている。
自分は小さいときから文字や漢字に対して興味を抱いていた(と思われる)。
母親はごく普通の女性だったが書道と裁縫が得意だった。戦前に就職した役所では、字がうまかったのでいろいろな書類の筆写や代筆を頼まれた、というのが彼女の自慢話のひとつ。そんな母親が自分がなんとなく漢字に興味を抱いていることを察して、小学校2、3年生のころ緑色をした小漢和辞典を買い与えてくれた。自分はそれを眺めるのが好きだったが終いにはページが取れてばらばらになりそうになった。
でも書き初めや学校の書道の時間は大きらいだった。「美しい字」のイメージはあるのだが、自分は少しもうまく書けないから。大人はみんな字がうまい、と思っていた。
とんでもない予感だが、AIに届かない世界がここにはあるのではないか、と思ったりする。
たぶん石川九楊風の書字をAIにやらせるのは簡単だ。AIはこういう絵柄を無限に吐き出してくるだろう。でもそういう無限の絵柄を自分はおもしろいとは絶対に思えないと思う。
その差は何か?
自分はその書字の向こうに、石川九楊という「人」を見ている。今度はこうきたか、とか、これをこんなふうに表現するのか、とか、なぜこの形を選んだのか、とか。自分の眼差しは書字という行為をしている「作者」に向けられている。具体物としての書字はそのための媒介物でしかない。
ハラリの問い、人は何を望みたいのか、について、人は他者という自分でない人との関係を望みたい、というのはひとつの解答候補にはなるのかもしれない。

表紙の図柄は「大根を煮た夕飯の子供たちの中にをる」(河東碧梧桐の詩)と書いてある。