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デザインと哲学/はじめに

2022.12.1 17:53

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(Facebook にて、「デザインと哲学」というグループを作った(221201)。転載)

1. 哲学という行為

哲学という行為は、「ほんとうはどういうことなのか?」と物事を追及していく行為 です。

自分でも長いあいだ、哲学とは何か、といろいろ考えてきたのですが、これが一番しっくりくる言い切り方だと思います。目から鱗、コロンブスのタマゴ、みたいな。最大限大きく哲学行為をとらえるとそういうことになる。

また哲学が対象を問わない、というのは面白いところです。だからどういうことについても哲学を問えます。問えそうにもない場合には、なぜ問えないのか? という子供のような切り返しもできます。もうこれ以上問いようがない/問うてもしかたない、ということになるとそこで哲学は終わりになります(ウィトゲンシュタインという哲学者はそう言っています、たぶん)。

哲学が「問い」の学といわれるのは、このようなことだろうし、また哲学ではしばしば「真理」というものが議論になるわけですが、これは平たくいえば「ほんとうはどうなの?」と問うていることになるのでしょう。

このことばは、貫成人(ぬきしげと)という哲学者のことばですが、この方とは波長が合うのか、どの本を読んでも胸落ちします。たぶん気づきの元となる体験や体験を受けとめる感性が似ているのだろうと思います、年齢も近いし。ほかの人にもピンとくるかどうかはむずかしいところですけれど。

2. 哲学ということば

哲学は「知の学」でなく「愛知の学」である、というソクラテスのお話しは有名なのでここでは割愛します。一般的によく使われる「哲学」には、たとえば野球やサッカーの名監督の「野村哲学」とか「オシム哲学」みたいなのがあります。デザインについても、「誰々の(何々派の)デザイン哲学」とよくいわれます。「○○イズム」といういわれ方もしますね。自分はあまり言いませんが。

それらはどういう意味か? その監督やデザイナーがその人独自の一本芯の通った一貫性のある考えやスタンスの元でブレずに采配をくだしたり、ものづくりをしている、ということだろうと思います。それはおそらく彼らが実践のなかでつかみ取った「ほんとう」の野球やサッカー、デザインのエッセンスなのでしょう。

けれどここでは、「マイ・デザイン哲学」といった個人や個性に収束する「哲学」を語ろうとは考えてはいません。「わたしのデザイン哲学の理由」ならOKという気はします。

ということで、そういう哲学ではなく、いわゆる学問分野としての「哲学」とデザインについて考えていきたいと思います。ここで敷居がぐっと上がったかもしれませんね。

3. 哲学という学問

哲学は確かに難解で、いったい何の役にたつのかと、自分でもあまりに理解できなくて頭にくることはよくあります。どちらかというとわからないことの方が多いくらい。でも自分は、哲学は役に立つべきだと考えています。自分が学んで役に立たないようなら、その哲学は、少なくとも自分にとって学ぶ意味がないと考えてよいと思います。

4. デザインと哲学

では今、なぜ「デザインと哲学」なのでしょうか? その位置関係はどのようなものでありうるでしょうか。

自分が大学でデザインを学んだ4~50年前は、デザインを教えている大学は数えるほどでしたが、いまや多くの大学でデザインに関連する学部や学科があります。高校でもデザインに関する授業が始まっています。また公的な活動の指針にも、大きな会社の目標ステートメントの中にもデザインということばが踊っています。でもみなわかったような顔をしていますが、話しを聞くとその内容には大きな振れ幅があるように感じます。

またコンピュータのおかげもあって、デザインの技術的なスキルは日々確実に進歩しているように見えますし、それら技術や「やり方」にかんする情報もあふれています。ということでデザインの意味はどんどん拡散しているといえるでしょう。

もちろん拡散するものなら拡散すればよい、という話しもありますが、しかしまさに「デザインするって、ほんとうはどういうことなの?」という哲学的な問いが抜け落ちているように感じますし、そのことが自分の頭の中からはなれません。年齢のせいかもしれませんが、とにかく自分は問うてみたいと思うのです。もちろんそれをするのが楽しいからです。

哲学が現代のわたしたちのデザインに直接的な答えを教えてくれるわけではありませんが、デザインとよく似た形の問題を哲学の中にみることはできますし、哲学の中にデザインの問いを考えるヒントはたくさんあると感じます。

また逆に、デザインという問題へのアプローチが、哲学に新しい光を投げかける可能性(の手触り)をなんとなく感じたりもしています。

これらの理由の一つは、どちらも「人」を主たる考慮要素にもっているという点があります。古代ギリシアのはじめの哲学者タレスらの主題は「世界/自然」はどうなっているのか、でした(自然学者)。そしてその少しあとのアテナイのソクラテスが「人の問題」として哲学を再定義しました。自然や世界についてはやがて「自然科学」へ枝分かれしていきますが、その分節点が「人」です。そしてデザインもまた「人」は欠かせない要素です。

つまりデザインも哲学も、どちらも根底に「人とはほんとうは何か」「人のふるまいとはほんとうはどういうことか」という問いを共有しているということです。

ということで、「デザインと哲学」です。

221201