2023.2.12 10:50
2023.2.12 10:50
はじめに古代から近代までの哲学を概観し、2回目で自分の考えるデザインを概括した。
近代のカント以降、いくつかの変遷を経て、現代につながるわけだが、近代以降を「概観」するのは自分の手にあまる。ここではデザインにかかわると思われる哲学のトピックをひろう。
カントの指摘は哲学界全体に、おおむねは受け入れられた。その後、ヘーゲルによる弁証法やニーチェのちゃぶ台返し、現象についての考察があった。また哲学と並走して、進化論(ダーウィン)や経済学(マルクス)、心理学(フロイト)、言語学(ソシュール)などが、哲学に少なからず影響を与える。また相対論(アインシュタイン)や量子力学、生命科学/脳科学、コンピュータの実現など、多くの科学や技術分野が哲学に激しいプレッシャーをかけた。
大きくみれば「科学的な視線」の広がりと深まりに、哲学はやや押され気味な感じがする。個人的には「超道具」の様相を呈するコンピュータ/情報ネットワーク/AIといった「技術」が人に与える影響の大きさに、哲学がどう答えうるかにとくに注目している。
「哲学」は世界を読み解こうとする行為であるのに対して、科学に裏打ちされた「技術」は世界や人を実際的に変えようとする行為である。何かをよく知ってから行う、という悠長なことを言っている間に、人自身が大きな変化の波の中で激しく突き動かされている、そんな現代であるような気がする。
人は、自分で思うように自由に考えて行動していると思っている。けれど実際にはさまざまな見えない構造に囚われていて、その枠組みの中で考え「させられ」ているに過ぎない。会社員は会社員という、学生は学生という枠のなかで、そこに属するものとして思考している。性別も国も「流行」も構造である。私も日本人の男性として物事を考えているのだろう、けれどそのことになかなか気づけない。
たとえば「普通」という言葉を、最近とくによく聴くし自分でも無意識に使ってしまう。犯罪者をみると「普通ならそんな酷いことはできないはず」とか「あの人は異常(=普通でない)だ」と言ったり考えたりする。SNSでの名乗りに「普通の日本人です」というものが多いが、それだけ人は「自分は普通」と考えがちである、ということだ。自分が囚われている構造(枠組み)が目に入らず、自分はどんな枠にも囚われていない「普通」の「ニュートラル」な存在と考えてしまう。自分も例外ではなく。
デザインはできるだけ「構造」にセンシティヴでありたい。その中で考えるにせよ、その外に飛び出すにせよ、つねにあらゆる囚われに対して感覚を研ぎ澄まさねばならないと思う。
思考は言語の作用であるし、思考することは筋道/論理を追うことだろう。分析哲学はそういったことに焦点をあてている。とりわけデザインも「ことば」との関係は深い。
先に、多くの科学分野の進展について触れたが、そういった科学を対象とする哲学的な考察を分野として科学哲学という大きな流れがある。
心とは何か、意識とは何か、それは人に残された最後の問題領域ともいわれている。デザインも結局はそこへ帰っていくのだと思えるし、個人的には、道具作りや表現ということも、この問題に対する一つの局面になっていくような気がしている。
歴史的にはデカルトの心身二元論を端緒としているが、それを否定したり/肯定したりとまだその周囲を巡っているようである。個人的には二元論の構えはシンプルでわかりやすい。
脳科学やさまざまな検証方法の発展で、何がわかっていくのか、興味もそそるし目が離せない。
また、AIといった新しい技術要素によって、大きなうねりが始まりそうな気配である。
プラグマティズムのはじまりは近代にあるが、何回かの変遷を経て現代〜未来にも重要な思想になるような気がする。とくに技術やデザインという実践的な営みにとって、直接に「響く」行動指針/思考指針になっていると、個人的には感じる。
冒頭で述べたとおり、現代を単純な哲学的な分野に分類することはできないし、一概に語ることもできない。一人の哲学者がいくつもの派に顔を出す。
この後も個別に、デザインと響き合う哲学の考えや言葉に触れていきたいと思う。
素人なりに、個人的に参考になった本をあげておく。
わかりやすさは人それぞれなので、あまり有効でないかもしれないけれど。
「哲学マップ」「図説・標準 哲学史」「カント」「フーコー」(貫成人)
「哲学用語図鑑」「続・哲学用語図鑑」(田中正人)
「哲学のしくみとはたらき図鑑」(マーカス・ウィークスら)
「岩波 哲学・思想事典」(廣松渉ら)
「寝ながら学べる構造主義」(内田樹)