2019.11.5 14:55
2019.11.5 14:55
デザインの一番底にあるものは、〈わかる〉ことなのだと思う。それが自分の現時点での結論である。それについてしばらく書いてみよう。
自分は「〈わかる〉ためにデザインしているんじゃないか?」と考えたのは、UIのデザインを始めて間もないころだった。その思いはずっと持ち続けていたけど、何年もそれ以上に考えは進まなかった。が、去年、山鳥重さんという脳科学者の本を2回目に読みなおしていて、はじめてストンと納まるべきところに納まった。それはシンプルなメッセージで、「わかるとは感情である」という一節だった。それで多くのことが一気に繋がった。
〈わかる〉というと、なんだか複雑な心理的な作用のような感じもするけど、「感情」「感覚」であると考えれば単純だ。「美しい」とか「いやな感じ」とか「うれしい〜」という感情と同じように、何かについて「ああ、わかる!」という「感じ」がする、ということだ。それだけのことである。
(「わかる」という言葉は、日常的な言葉なのでその意味するところは広い。なので、自分の言いたい「わかる」は、山括弧(〈〉)でくくって表記する。この方式は個人的に採用しているが、便利なので推奨しておく。)
デザイナーになる前から、そしてデザイナーなってからも、いつも自分自身がこころの底で一番気なっていること、本当に自分が大切だと感じていることの話しがしたい。どういうことか。
「自分が一番大切だと思っているのは、これこれです」と信念を語れる人はたくさんいると思う。けれど、今自分が語ろうとしている「大切なこと」は、信念とか意志とか信条ということではなく、どうしてもそのように感じてしまうような「大切さ」のことである。
つまり「心動かされた」経験をともなうような「大切さ」のことといってもいい。そういうものが、誰にもあると思うがどうだろう。
たとえば、自分にとってのそれは小学生の頃は漫画だった。数は多くないがどうしても心引かれる漫画家や一連の漫画があった。ストーリーもさることながら、絵の造形的な問題も大きかった。ペンのタッチやデッサンの正確さ、バランスなどが気になった。中学生の自分はビートルズに代表される音楽の存在が大きかった。どうしようもなく心引かれた。その他にもスポーツや吹奏楽や文学、数学にもこころ惹かれた。もちろん異性にも。
それらは、学校で習う「正式な、行儀のいい感動」というより、むしろ親や大人からは少し眉をひそめられる類いのものの方が個人的には多かった気がする。秘めると思いはいっそう深くなる。
それらに共通するのは、教えられたり、与えられたり、ましてや押し付けられたりするものではなく、自然に自分の中に「生じる」ものである。これはいったい何なんだろう、と漠然と思うでもなく感じていた。それが何かとはうまく言えないけれど、大切なこととそうでないことの境界、あれはいいけどこれはだめ、は自分には明確なものだ。
それで、心が動いたときに自分が抱いた気分にもっとも近い感じを強いて一言でいえば、「あぁ、わかるなぁ」というものだ。うまく言葉では説明できないけど、「なんだか〈わかる〉ぞ」という感じであったと思う。
いろいろあって自分はデザイナーになったが、デザイナーである自分を支えているのはそういう感覚であるし、それを失わないでいたいと思う。またデザイナーになったからこそ、そういう感覚を保ち続けてきたとも言える。
デザイナーは、美しさや気持ちよさといったポジティブな〈感情〉を扱っているが、もう一歩踏み込んでいうと、美しいや気持ちよいなども、結局、〈わかる〉に繋がっていると思う。何かを見て、自分なりに「美しい」と〈わかる〉のであり、気持ちいいと〈わかる〉のである。
そういうわけで、〈わかる〉なのであった。
デザインは、〈わかる〉を作り出すことなんだ、と思う。
(つづく)
「『わかる』とはどういうことか」— 認識の脳科学(ちくま新書2002)
山鳥重(やまどりあつし)
190820