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問いと答えの提案

2022.12.4 18:17

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哲学は、根本への問いがベースになっている。その問いに答える過程の行為を哲学と呼んでいるのだろう。

その「答え」はつねに「こうではないか」という〈提案〉(暫定的な、答えの「案」)なのだと思う。それは正解かもしれないがまちがいかもしれない。もちろん提案者は「これこそ正解」と思うからこそ提案しているのだけど。

科学哲学では、科学上の発見はつねに「暫定の答え」であり、「暫定の答え」でなければならない、という。更新の可能性がないものは科学ではない(「可謬性」ポパー)。哲学上の主張も同じように「否定される可能性をつねに持つもの」であると思う。

よく想像するのだけど、これが「究極の哲学の解です」というものがいつか提示されて、人類が全員がそうだそうだと納得する、なんてことになるとは思えない。もしそうなったら、後はどんよりした停滞しかない。つねに、いやそれは違う、という反論が出ることがなにより健全なことなのだろう。

振り返ってデザインが成果物として作り出す「作品」や「デザインされた物」も、やはり何かに対する「暫定的な答えの提案」である。だからこれは更新可能であり、つねに「さらに新しい提案/新しいデザイン」が出てきうる。

ただデザインの様子が少しちがうのは、作品に至る過程は通常「説明」されないし、正解の保証もされない。答え(「作品」)は突然投げ出されるように提示される。

しかしそれが「答え」であるのなら、そこでの「問い」とはいったいなんなのか。

自分の解釈はこうだ。デザインは「答え」によって「問い」を提示している。あるいは「問いと答え」を同時に提示している。答えが問いを形容している、ともいえるのかもしれない。

例でいえば、Appleという会社はその製品も会社自体もとても高いレベルの「デザイン作品」になっている。それらはAppleが提案する一つの「答え」である。その「問い」は、われわれが感じる「未来性」や「先進性」「知的な楽しみ」「未来における技術の『よい』在り方」とはどういうものか、といった広がりと含みのあるメッセージなのだと思う。

いまの上に書いた「未来性」云々などの言葉の説明はあまりにチープで誤読的であるが、「作品」はそのような「説明」を越えた「形容」になっている、ということなのだと思う。

哲学について一つ気になっていることがある。はじめに哲学は「問いを抱いて答える」と書いたが、始まりの「問いを抱く」ことそのものについては、あまり触れられていない気がするのである。デザインにおいては、「アイデアを出す」という形で「問い」という発想を位置づけているのだが。

221204