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「嗜好」という問題

2023.2.12 18:42

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LGBT

前にLGBTの問題は、人種差別も含めて「マジョリティ/マイノリティ問題」なんだなと大雑把に気づいた。あるとき人は多数派であり、あるとき少数派である。どちらに属するかはたまたまのことで、自分はある「派」という構造に属し、そのパロールを話す。

なかにモヤモヤと引っかかるものを感じてはいたが、自分としては、このマイノリティ問題はなんとなく他人事であり、今ひとつ切実感がわかない領域だった。それでそのモヤモヤする違和感には正面から向き合わずに過ごしてきた。

さきほど家人と話をしていて自分がふとある疑問を口にしたのだが、それがこのモヤモヤする違和感の正体だと気づいた。

相手が異性にせよ同性にせよ、何かに「惹かれる」という心の趨勢はいったいどこで決まることなのか、ということ。

自分は「心惹きつけられること」について、デザインの問題とからめてずっと考えてきた。実際それは、デザイン以前から抱えていた「個人的な問題」であり、自分のほぼすべての思考のはじまりであり、自分が追っているメインテーマである。自分がデザインという仕事を始めた隠れた理由とも、いえる。

LGBTの話し自体は他人事だったが、よく考えると、LGBTの根本のところは、自分の興味に繋がっており、重要なキーがそこにある予感がすごくしている。

異性または同性に引かれることは、単純な好みや趣味嗜好の問題ではない。もしそうだとすると、次々に対象相手も変わるだろう。あるときは異性を愛し次のときは同性を愛し、また異性を愛する、といったかたちで揺れ動くだろう。

しかしある片方の性に惹かれるというのは、もう少しその人の固定的な「嗜好」だ。多くの人の嗜好は一生変わらない。一部の人は、本来の嗜好に気づくという形で1回だけ変える。

たんなる好みでないとするなら、それは何なんだ? その判断をしているものは、何だ?
脳で決まるのか身体で決まるのか、ホルモン分泌で決まるのか、それともDNAレベル?

おそらく〈感覚〉がそれを受け止めていることはまちがいなかろう。〈嗜好〉は〈意識〉における合理的な〈思考〉の判断結果では断じてなさそうだ。〈嗜好〉の決定を、理性が否定することはできない。

でもぎゃくに、〈感覚〉の判断なら、もっとキョロキョロと動くものではないかとも思えるし、そこが不思議だ。生涯、ほぼ一貫した出力を出し続ける〈感覚〉って、どういうことなのか。

「嗜好の問題」

これを「『嗜好』の問題」と、とりあえず名前をつけよう。

この課題は、今はまだ、はっきりと答えをいうことはできないが、自分にとって最大級の「視点の発見」であるような気がする。エウレカ!

※〈嗜好〉という言葉が適切かどうか、よくわからない。不適切だとすればほかに何があるだろう?
※LGBTについては、嗜好よりも「指向」というべきかもしれない。
※言いたいことは「嗜好」「指向」「興味」「関心」「interest」などを含意する大きな観念のことについてなのだが。

男の子は小さいときから自動車とかカラクリなどカッコイイものが好きだし、そして女の子はお人形さんや小動物などのカワイイものが好きだ。もちろん、そうでない人も多かろうとは思う。しかし圧倒的に多数(?)が示す嗜好の傾向が存在するようでもある。
その傾向は、親や周囲が陰に陽にそう仕向けた後天的なものかもしれないし、あるいは持って生まれた先天的なものかもしれない。
つまり、嗜好は先天的(先験的)なものか経験的なものか? ということ。

ある知識や判断が、先験的か経験的かというのは古典的な哲学の問題だが、それを〈嗜好〉に当てはめてみたいと自分は思う。

嗜好の先験性を問う、という話題を、自分は寡聞にして見たり聞いたり読んだりしたことがない。ならば、これは独自性のある視点といえるだろうか。でもこれは、人の行動を決めるとても重要なピースではないか。

わたしたちはみな、〈嗜好〉と名前の付いた板を首からさげている。その板には、あれが好きとか、これは嫌い、と書いてある。

わたしたちが生まれたとき、その板にはすでに何かが書かれていたのだろうか。それともそれは、真っ白な板/タブララサだったのだろうか?


〈嗜好〉は、ないがしろにされがち

〈嗜好〉とは、平たくいえば何かを「好き」であること、心惹かれることであり、興味あること、「欲求」の元にあるものである。

〈嗜好〉は〈興味〉や注視点/視点にも関係する。つまり「見ること」に繋がっている。もしも〈嗜好〉あるいは〈興味〉がなければ、人は何もじっと見つめることができないだろう。

〈嗜好〉はその人が何に気をかけるかに繋がっている、というより「気にかける」というそのこと自体である。
道を歩いていて、何気ないありふれた花に目が行く、それは何がそうさせるのか? その引っかかりもまた、小さな〈嗜好〉である。
そして〈嗜好〉はまっすぐにわたしたちの〈価値感〉に繋がっている。

しかし〈嗜好〉はないがしろにされがちとも感じる。
たとえば、それは個人的なことだとか、揺れ動いて定まらない不安定で取るに足らないなど。

また「正義」や「公正」、真理、正しさ、美しさといった大きな問題にくらべれば、個人の〈嗜好〉など論ずるに足らない/研究するに足らない、と。
けれどたとえば、「美しさ」は〈嗜好〉を抽象化かつ神聖化したものとは考えられないか。〈嗜好〉はむしろ、正義や公正のベースにあるものではないのか。

予想

やや思い切った、しかし根拠のうすい予想を記しておく。
経験論の答えを援用して、〈嗜好〉の板もやはりタブララサである。
それに比べて、身体的な特性は天賦の部分は大きい、つまり生まれたときに身体特性の板にはたくさんのことが書き込まれている。
〈嗜好〉の内容については、基本的には後天的なものだが、先天的な身体特性が〈嗜好〉に少なからず影響を及ぼしていること大いにはある、と、そういうことではないか。

230212